ルソー 言語起源論:旋律と音楽的模倣について

「人は耳よりも目に対してよりよく語りかけるものだ。…

しかし心を感動させ情念を燃え上がらせなければならない時、事態はまったく異なる。」

ただ生存するためだけならば、身振りで済む。情念が湧いた時、身振りでは足りず、声が出てきた。


感情が声の抑揚を作った。

「知識が広まっていくにつれて言語の性格が変わっていく。それはより正確になるが情熱的でなくなる。そのこと自体によって抑揚は消え文節が広まり、言語はより正確でより明晰になるが、よりだらだらとして無声で冷たくなる。」


「最初の人間の言語(は)詩人の言語だった」

韻文よりも詩が先に、話すよりも歌が先に生まれた。

「ほかの詩人たちは書いたが、ホメロスだけが歌い、人々はその神々しい歌をうっとりと聞くのをやめなかった。」

「ハリカルナッソスのディオニュシオスは、高音の抑揚における音調の上昇と低音の抑揚における下降は五度だったと言っている。そのように、韻律の抑揚は音楽的なものでもあった。」

「いかなる言語でも、同じことばの上にいくつもの音楽の節を乗せられるようなものは、決まった音楽的抑揚がない。抑揚が決まっていたなら、節も決まるだろう。歌が恣意的であれば、抑揚がまったく配慮されなくなる。」


暖かい土地と寒い土地の言語について

「人間が社交的になるように望んだ者は、地球の軸に指で触れ、それを宇宙の軸に沿って傾けた。」

「温暖な風土、肥沃な大地では、住民が話し始めるのに快い情念の活気が必要だった。最初の諸言語は欲求ではなく快楽から生まれたので、長いことその源のしるしを保った。その魅惑的な抑揚は、それを生んだ感情が消え去ってそれとともに初めてなくなった。それは人々の間に新たな欲求が入り込んで、各人が自分のことしか考えず心を自分のうちに引っ込めるようになったときだ。」

「自然が吝离(ケチ)な北方の国々では情念は欲求から生まれ、必要の陰気な娘たちである諸言語には、その厳しい起源が感じ取れる。」

「彼らのところでは最初の一言は「愛してください aimez-moi」ではなく「手伝ってください aidez-moi」だった。」

「彼らの最も自然な声は怒りと脅しの声であり、その声には常に強い文節がともない、その声は固くて騒々しいものとなっている。」

「南方の言語は生き生きとしてよく響き、抑揚に富み、雄弁で、しばしば力強さのあまり難解だったに違いない。北方の言語は音がこもっていて固くて文節が多く、耳障りで単調で、優れた構文よりも語彙のおかげで明晰だったに違いない。」


「フランス語、英語、ドイツ語は互いに協力し合い互いに冷静に議論し合う人たち、あるいは怒っている激情家の私的な言語である。しかし神聖な秘儀を知らせる神々の使いや国民に法を授ける賢者たち、民衆を駆り立てる指導者たちはアラビア語かペルシャ語を話さなければならない。われわれの言語は話すよりも書く方が引き立ち、聞くときよりも読むときの方が快い。逆にオリエントの諸言語は書いてしまうとその生命や熱を失ってしまう。意味は半分しか語に込められておらず、その力はすべて抑揚にある。」

どこかの文献で、「フランス語は愛を囁くための言語、イタリア語は歌うための言語、ポルトガル語は祈るための言語」と書いてあったけれど、どの本だったか、忘れてしまいました。ルソーもフランス語よりもイタリア語の方が音楽に適していると論じています。

以前、このようなものを書きました。

静かな言語

ルソーの言うように、寒い土地の言語には厳しい自然が背後に感じられます。

真冬のノルウェーに行って、やっと初めてヘヴィーな音楽がしっくりときてびっくりしました。

静けさも感じられます。

厳しい自然と静けさから湧いてくる優しさは、じんわりと染み入ります。

寒いところ好きのアジア人として、ルソーと喧嘩して、お互いが作った音楽を聴き合いたいです。


古代と近代の声と音楽

「アンフィオンやオルフェウスの時代のギリシャ人たちの音楽が、首都から最も離れた町においても今日あるような事態にあったとき、その時まさにその音楽は大河の流れを止め、カシの木を引き寄せ、岩を動かしたのだ。音楽が非常に高い完成度に到達した今日では、音楽は非常に愛され、その美しさは深く知られるようにさえなっているが、何も動かさない。」

「声による抑揚を離れて和声の制度に専念することで、音楽は耳にとってうるさくなり、心にとって甘美さをより失った。」

「古代においては、公共の広場で簡単に民衆に聞いてもらうことができた。丸一日話しても気分が悪くなることはなかった。

「ヘロドトスは自分の書いた歴史を屋外に集まったギリシャの諸国民に読んでおり、満場が拍手で鳴り響いていた。今日では公開集会の日に論文を読み上げるアカデミー会員の声は、部屋の奥ではほとんど聞こえない。」

「ところで、集まった民衆に聞いてもらえないような言語はすべて奴隷の言語である。ある国民が自由であり続けてその言語を話すというのはあり得ない。」


一日中話しても聴いても気分が悪くならない声、自然のものを動かせるような音楽。

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